忍者ブログ

[PR]

×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。

執事喫茶とか

あたらしく行ったサロンの帰りにそういえばと思って執事喫茶に行ってみたの。
前に友達が行ったとこで、メニューが変わってるってさんざん褒めてて、どんなもんかなーと思って訪ねてみたわけ。

私そうゆう形態の喫茶にはある程度行っていて(でも行ってる人に比べたら行ってないけど)。
男装喫茶、男装バーにメイド喫茶。日本で一番有名であろう池袋の執事喫茶とか(予約したさ!)、札幌の執事喫茶とか。
そういうお店が好きなんじゃなくて、付き合いで行くことがほとんど。
行ってもあんまり話すことないしねー。執事さんとおはなしするくらいならサロンのおねーさんとぶっちゃけトークしてる方がよっぽど楽しい。

で、やはり今回もそんな感じで。
サービス内容としてはそこそこよかったんじゃないかなあ。
お客様のお相手をしつつお客様は執事たちの日常を楽しむみたいな。
新規かつおひとり様かつわたしも自主的にしゃべるんない方だから、執事さんがたも料理に困ったかも。

たとえるならDKがわやわややってんのを眺めるのがいちばんいい鑑賞スタイルなんじゃないかなあ。
ある喫茶の執事部に勤めてるひとたちがどうでもいい話をしているの姿を遠くから見るっていうの?
ノリがよくて、ある程度執事たちで楽しめる人ならいいかもね。
お屋敷とお嬢様旦那様の世界で同棲中の彼氏がめんどくさいとか言えないじゃん。うふ。
テーブルでぼけーって執事さんのフリル眺めながら、ここの経営って個人なんですか?原価どのくらいですか?とか聞きたかったのを必死に抑えましたん。


わたしきっと向いてねーんだろうなあ。

上映終了ぎりぎりでスカイフォールみてきましたー!
今回のボンドガールはダニエル・クレイグでヒロインはMだと思いますん。

拍手

PR

SNS=しまい込まれた・ねっとりとした・せかい

あんまりここ更新してないから見る人もいないだろうなあと思って全裸で人っ子いない海岸を走り回るが如く好き勝手に書いてみました↓(いっこ下のやつ)

「そうだ・京都・行こう」というキャッチフレーズが変化した「そうだ・ツイッター・やめよう」の三句が天啓のように頭に浮かんで離れなかったので啓示に従い敬虔な教徒の如く脱イッターしてきたのであるる。
そうしたらば140字で足りた「セルビアン・フィルムスR20だったわwwwワロス」というツイートが下記のようになったのであるから恐るべきはツイッター。きっとSNS大好き日本人は140字にいろんなものを詰め込みすぎているのよ。もったいない。

しかし私のような収集癖のあるオタク野郎には、非常に優れた情報収集ツールであるツイッターから離れることは、かなりの損害であることが見込まれます。
グッズ情報とかね、誰がどこでどーしたとかね、あれがキャンペーン中とかね。あとコミュニケーションツールでもあるからね。続けてたら人脈が広がったかもしれないじゃないですか。
ゆえに、自分のTLにどうでもいい情報がずらずらと並ぶというテンションsage画面から解放されこうして書く場所を失ったが故にブログを久方ぶりに更新しつつも、少々の先立つ不安を感じざるを得ないのです。
案外どうにかなりそうですけどね。まる。

拍手

復帰作が遺作でした

ひさしぶりに『セルビアン・フィルム』に触れたんですけどね、日本版DVDがカット版というのを聞いて、あれ蠍座で見たのどうだったっけと思って公式ページ覗きに行きました。
まさかのノーカット版。蠍座さんさすがです。

『せるびあの映画』とぽややんとした翻訳ができるこの映画ですが、正真正銘のレーティング・トゥエンティ。20歳以上のみ閲覧作品となっております。
私は授業がおわったあと最終日の最終回に見に行きました。
夜の回で、おなかがへってて最後尾でこそこそとおにぎり食べながら見てたのを覚えています。

そう、私はこの映画にもの言いたくてこのブログをはじめさせていただいたのでした。

昨年の出来事で、もうすっかり断片的にしか覚えていないのですけれど、この映画、最っ高に最低の倫理観で押し進められてます(褒め言葉)
やっちまったな、と。本来であれば「あーこれやりたいけどやっちゃまずいよねえ、まずいよねえ、やめよう」と善良な市民が頭の中で展開するだけで実行しないであろうアイディアを最後まで詰め込んでます。ぶらぼぉ。

ビデオの主演であるポルノ男優は、パッケージに書かれているとおり一本のペニスでしかないわけで。彼はそれだけの存在なのですね。
彼の生活も幸福も関係ない。ただペニスとしての存在しか認められていない。
そのペニスとは、すべてを貫き傷つけるものなのか、それとも画面の向こう側でしこしこしゅっしゅに興じている観客の代弁者なのか。
ペニス主義=男根主義=男性中心主義なのかもしれません。
(そういえば女性が加害者となる描写はビデオ内には出てこなかったような)
ということは、狙った購買層はペニスを持つ者(女性のペニス主義者も含め)なんでしょうかね。

この映画における最大の道徳への暴挙は、中盤と最後にひとつずつあります。
『トーチャー・ポルノ』という言葉をまざまざと見せつけられる名場面ですので、もしご覧になる際には覆った両手の隙間からどうぞ。
嫌でも網膜に焼き付いて離れないでしょうから。

(そういえばどうして今更この映画のことを書こうと思ったのかというと、この間見てきた『テッド』がR15+だったからなのよね。ややご都合主義だけど『テッド』おもしろいよ!)

拍手

こうこくけしました

三ヶ月の広告が出ているのはわかっていましたが、改めて見直すと最後に書いたの五月なのねと自分の三日坊主気質にはずかしくなります。

このあいだのレディースディに友達と『悪の教典』をみてきました。
メディア展開があざとくて誰が見に行くかと思っていたのですが、むしゃくしゃしていたので気分転換に行きました。
おもしろかったです。
大衆娯楽映画としては詰め込みすぎた感があって、とてもゴージャス。
(特にエンディングテーマのえぐざいる)
わかりやすい映画だと思いました。(原作読んでません)

さんざん予告で先生が生徒をぶち殺しまくる、先生には裏があるとヒントを流していたので、展開の予想はやりやすかったです。が、本編にもわざとらしいヒントがいかにも提示されていて、すこしげんなり。
釣井先生、わざわざサイコパスの医学資料職員室でしまわなくてもいいから!わかってるから!!

蓮見先生が相手の感情への共感、理解を欠如したサイコパスだということは、本編だけではわかりにくいかも。
その代わり、彼があたまのおかしいひとっていう提示はされてて、それが後半の生徒皆殺しと猟銃に浮かぶ相棒のおめめなんだろうなあ。
生徒には容赦ないのに、倒れた月面着陸の人形を元に戻すところか。
すごくわかりやすいあたまのおかしいひとの描き方。
歌うたいながらの人殺しは、フリッツ・ラングの『M』から続いている系譜なのかしら。
つっつくつーつっつくつーとかいいながら猟銃向けられたらいやだよね。うん。
原作読んでないからあんまり言えないけど、特に彼の大きな存在でもなかったアメリカ時代の相棒が、肉の塊になって話しかけるっていうのは、どうかと思うなー。それやったらいかにもただのあたまがおかしいひとじゃないか。
あくまで普通の人間ってところが、蓮見先生の良さだと思うの。

いいところは、染谷くんの演じた早水くん。すっごくかわいかった。はたちとは思えないふくよかな頬。すっっごくかわいかった。染谷くんの早水くんだけで私は千円分払った気がする。もっっのすごくかわいい。
早水くんはね、頭の回転がはやいから世の中を斜にながめていて、その辺のふてくされたところとか、すごくいい。
釣井先生との謎かけみたいなやりとりは、なんだかたぎってしまう。
蓮見先生に捕まってガムテープであたまぐるぐる巻きにされて汗で前髪が額にはりついてしまうところなど、おすすめだと思います。
ふくよかな額に、(ふくよか言ってますが彼『ヒミズ』から比べるとやせました)うっすらと前髪がはりついているんです。よい。

『ヒミズ』といえば、今回の主役はふたりとも『ヒミズ』の主役だったんですね。それで、釣井先生が吹越満だったんですよ。で、園子温かとおもったんですが三池だったねっていう。
でもね、クライマックスの学園祭前日のあの祝祭空間に生徒の血しぶきが飛び散るってね、すごく園子温っぽかった。
学祭だからってね、美術さん盛りすぎたと思うの。あそこまで生徒本気出せないと思う。でも、スズランテープや絵の具や段ボールでごてごてに、チャイナタウンさながらにわしゃーって極彩色で飾り付けられた空間を、生徒が悲鳴挙げながら逃げ惑って撃たれて血が飛び散るっていうのは、映える。普段の廊下じゃいけなかったのね。ゴージャスじゃないと。

それにしても最後の一分はいらなかった。へびのあし。
伊藤英明の惜しげもない脱ぎっぷりと血しぶきを堪能されたい方はぜひどうぞ。
見に行かれたら教えてください。おはなししましょう。

拍手

けっきょく映画のはなしになったよ

おひさしぶりです。
ちょっと目を放したすきに、葉桜の季節になってしまいました。
ついこの間までは梅や桜が咲くのを楽しみにしてしたのに、月日というのはあっという間に過ぎていきます。更には、そのときに感じたことをセピア色に染めてしまって、思い出そうとしてもなんだかどうでもいいことのように思えてしまうのです。

要約:原稿書いてから更新しようともそもそしていたら、書きたかったネタの鮮度が落ちてしまいました。

とはいえ、まだ原稿の手直しが残っている身、そうおしゃべりもしていられません。
(おそろしいことに今月は学校の発表が三回もある!)

しかたないから最近見た映画の話でもと、最後に見た映画を思い出してみたのですけれど、『仮面ライダー×スーパー戦隊 スーパーヒーロ大戦』なのですよね…。
どんな話かっちゅうと、日曜朝7時半からわるものを複数でフルボッコする歴代のスーパー戦隊のみなさまと、その30分後朝8時に沸いてくるわるものや同じ変身能力を持った仮面ライダーと戦ったり悩んだりする歴代仮面ライダーのみなさまが、双方のあくの軍団と手を組み互いを潰しあうというものです。
正義のみかた同士がいつもは敵対している相手と協力して、正義のみかた同士で戦うんですよ。お互いの存続をかけて。

とうとう東映やっちまったね!って感じがします。
正義の味方同士の潰し合いですよ。
35周年記念のしめくくりでメタ的なゴーカイジャーを、平成ライダー10周年のお遊びでディケイドを行ったところで、すでに戦隊ものというジャンルは飽和していると思うんです。
過去のシリーズの世界をつなげる、いわゆるクロスオーバー的展開を公式がやることは、そのジャンルの限界を自ずから示しているのではないかと。
そして今回の正義の味方同士の潰しあい。
もう、子供の夢ぶちこわしかどうかは知りませんが、昭和ライダーがぱっと出のゴーカイレッドにやられたシーンで私の胸はえぐられまくりました。
ディケイドでも、なじみのあるライダーがばっさばっさやられていくのを見るのはもっのすごく辛かったのですけれど、こういう過去の否定って、子供よりもちょっと物心ついた時に見るほうが堪えるんじゃないかしら…。

まあまあそれはおいといて、正義の味方同士の潰しあいというのは、それは作中でお互いの演技だとネタばらしを行ったにしろ、なにか禁じ手を用いた感が否めません。
いまどきの小さい子はそんなことでショックなんて受けないよと言われればそれまでですが、信じていたものが悪へ裏返る、絶対的だった正義の味方が互いの信念の為に存在を消し合う。
特撮ヒーローの主人公って、小さい子がはじめて出会う絶対的な価値観だと思うんです。
(シリーズの最初から善悪二項対立な簡単な構図じゃないというお叱りは重々承知です)
ライダーはスーパー戦隊を消さなくては自身が消えてしまうというし、スーパー戦隊はライダーが見方を消したから消さなくてはならないと言う。
じゃあどちらを正しいと思えばいいの?って疑問が生じるのは必然で、それを担うキャラクターが双方からちゃんと出てきます。
事態は、視聴者の心情を代弁するキャラクターの行動によって解決する…のではなく、双方の首謀各のふたりが「わるものをだます演技でした」とバラして収束。
見ているこちらは、なんだかなー最初からおまえらの手の内かよとついつい思ってしまったのですが、じゃあ脚本の意図していることはなんなのだろうかと。
お祭りさわぎで二大ヒーローを対決させたわけではあるまい(商業的にはそうかもしれませんが)、じゃあ何だと考えれば、先に言ったジャンルの限界性、自らをパロディ化するしか方法がなくなってきたんじゃないかなあと思ったわけです。
それとは別に、子供たちに価値観のぶれを示したかったのかなあ…?とは思いましたが、それにしても視聴者の肩代わりをしたキャラクターが、紛争に効果的な行動を示していないのはどうかと…。
ジャンルの限界性は、絶賛放送中の「非公認戦隊アキバレンジャー」で、これ以上にたっぷりと示されています。
現在、平成ライダーは第二期に差し掛かり、スーパー戦隊はライダースタッフを大量に取り入れることにより、マンネリ化を打破しようとしています。
『スーパー大戦』や「アキバレンジャー」を見ていると、特撮ものの明日はあるのかと心配になるのですが、そんな一視聴者の懸念など杞憂に終わることでしょう。
なんだかんだ文句を言いながら、朝7時半のオープニングを見ているのですから。



拍手

カレンダー

02 2024/03 04
S M T W T F S
1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30
31

プロフィール

HN:
とよたせりか
性別:
女性

バーコード

ブログ内検索